仮病じゃないの巻

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ルーマニアに指圧講習に行って、その次の週の日曜日は、恒例の日本人会主催のソフトボール大会がありました。私は26回目を迎える大会で2年前の心臓オペの休養を除いて25回出場しているのです。初めのころは、マドリッドにある日本レストランのオーナーが仕切っているチームに所属して春、、夏のリーグ戦に参加していました。90年代のバブルが崩壊する寸前まで(ピークは92年のバルセロナオリンピックあたりまでが、やれやれイケイケの時代だったと思います。)は日本のメーカーさん、証券会社、銀行が偉い勢いでしたから16チームのリーグ戦が6月の毎週末に行われ、私も若かったから試合後の次の日は筋肉痛で施術どころではなかったのを覚えています。

あの頃は、JALや日本人学校が週末の練習の成果か、いつも上位で優勝を争っていたのを昨日のように覚えています。商社のチームも燃えていてイギリスからソフトのために助っ人を呼んだり、バルセロナから若いお兄ちゃんを出張させたりで、まー余裕が見えた、いい時代だったんだと思います。商社の駐在員もプライドに満ちたバリバリの人たちで、マドリッドの高級地区に住み、週一回の指圧を自分の体のメンテナンスのために自腹での散在を当たり前とした勇者を何人も施術をしました。今の商社等の駐在員のスケールの小ささは、不況と比例してしょうがないのかもしれません。
 夢のような時代も今では、昔話。今はスペイン人のチームが2つ、日本人チームが3つの、いつ消滅してもいいような大会になりました。10年前から地元人を集めたイチチーム(チーム名)を立ち上げてオーナー兼プレイヤーとして参加しています。ここ3年出たり引っ込んだりの状態でもっぱら監督としてふんずりかえっていたのですが今回は、メンバーがたりないためにフル出場に相成りました。一試合目は久しぶりのヒット、2試合目も何と3塁までの全力疾走でセーフ,じじいやルノー、の心境でした。
 若いころ、爺の走塁を見て、じじいしっかり走れとヤジを飛ばしたものでしたが、私は、ぴょんぴょん兎さんの如く走っているつもりですが、息子が、パパ、ロバみたいと言われた処を見ると気持ちと現実のギャップを認めざるを得ないと実感しました。3塁から次のバッターがセカンドに球を運んだので、ホームに走りました。
 全力で、全力で、ホームの3メートル手前で足がもつれて転倒、はってホームまで行きましたが、痛烈、アウト。会場が滑稽さと憐れみと同情で歓声の渦になりました。痛いとは言えないのでまず照れ笑い。何でもないの一点張り。しかしその次の日起きると両ひざに擦過傷そして右膝が腫れてること、腫れてること、せっかく治った膝がまたびっこのおじさんに変身です。夜中、痛いの何の、ション便をもよおし、はいつくばって便所に直行、終わったはいいが、ベットに這い上がれないので床に寒いのを我慢して仮眠。嫁さんの健やかな寝息を聞いたとき、私は、若干の殺意を胸の奥に感じたのでした。激動の秋はこれからも続くのだろうか。

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