一人で生きて、一人で逝く覚悟。

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死亡確認後、一日たった次の日に施設から移動、告別式を待つためのメモリアルホールにて,納官の儀式が執り行なわれました。3人のうら若き係の人の一人が、進行役を務めて、あの映画のおくりびとのシーンそのものを披露するのを拝見させていただきました。3人の年若いお嬢様が仕切っていることに、この仕事も立派に日の目を見るようになったんだとちょっと感動した次第です。

山崎努ぐらいのおじさんが仕切るのであれば、想像通りなんですが、みんなスタッフが若い若い。お袋が世話になった施設のスタッフも若い若い、看護関係の仕事はきついきついの評判が先行することが頭に、ひらめき、よくやるなー、日本の若衆も捨てたもんじゃないぞと心情右翼のおじさんは、改めて感心したのでした。

うちの娘、インターンの時期に赤ちゃんは、いい臭いだけれど、おじいちゃん、おばあちゃんはちょっとねーと小児科を選択したんだと冗談にいったことが、ありましたが、確かに大人のうんこは、臭いよなーと正直思うのでした。

お袋さんの顔を剃り、お化粧をして、髪の毛を整えてもらい、ホー綺麗になったこと、顔に皺ひとつなく、晴れ晴れとした顔で、親父との再会を楽しむためにウキウキしているんだろうと思うとあっぱれ、そしてご苦労さんの一言を心からかけてやりました。納官の作業の最中、手の甲と足の甲がちらっと見えました。点滴と戦ったあとなんだけれど、内出血が、紫色から黒味がかった色に変わっていたのが妙に目に焼き付きました。

本当に御苦労さまの一言でした。お袋さー,大腿骨を骨折しても痛いと言わなかったんだぜ。あれってすごいよなーの兄貴の言葉が、そして最後の最後まで、お便所の用足しを自分でしようとして、がんばったあの根性は、やはり大正生まれの意気地なのでした。4人の子供をあの時期に育て上げた根性は、最後の最後まで勲章として胸にピカピカさせていたのは確かでした。

お袋さんのおじいちゃんが病院にいた時、私たちひ孫が、お見舞いに行く機会が、何回かありました。おじいちゃん、お便所だからもうお帰りといわれて、帰らされたのを今でも覚えています。数年たって、ひい孫にてめえの下の世話をおばあちゃんが、しているところを見せたくない明治の親父がそこにいたんだと気が付いたのは、随分と、歳日がたってからでした。

確かにあの頃の日本人は、顎が張って、ふにゃふにゃなんて奴は、少なく姿勢が良かったようです。そんな世代のお袋さんが、大往生したんだから、これは、逆にお祝いなんだと思います。100歳まであと2か月ということで、市役所もお祝いしてくれるということで、喜んでいたのにやはり100歳を生きるということは、奇跡なんだと思った次第です。

2日後に告別式、そして次の日が火葬ということで、4日間ほど、延長して日本でのけじめをつけようと思ったのですが、9月の一週目のフライトが、ほとんど満席、金に糸目をつけなければ、ゲットできるのでしょうが、常識的値段でのチケットをゲットできそうもないので、予定通り帰国とあいなりました。

49日が10月22日になったとの知らせが届きました。この辺は、工面して帰国しようかと思っています。

お袋さんを4人の兄弟がすべて健在で看取ったことに改めて,丈夫な体をくれたお袋さんと親父に改めて感謝の意を称します。

一週間の日本滞在でしたが、本当の友が、影日向の区別なく、自分の時間を割いて、私の行動を手助けして呉れたことを、感謝するとともに、疲れただろうと、わざわざ時間を割いて、丁寧な指圧の施術をしていただいた恩師に改めて感謝の意を称します。

感謝感謝と手を合わせ、残り少ない一期一会の機会を堪能しようと思って、改めて合掌。

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