懐かしのスペイン

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スペインに住んでる日本人は、長い人で50年位の在住がせいぜいです。南米のような移民の歴史はありません。農家に生まれた次男、三男坊、ゆくゆくは出てゆかなければなりません。それでは日本には仕事もないし一発、海外雄飛で一旗揚げようという若者が夢を求めて船に乗って南米にはせ参じたわけです。こんなイメージが移民ですよね。
 悲惨もあり、大成功もあり、また第二次世界大戦後の移民者は、すっからかんになり、一から再出発といった日本移民の歴史があったりして波乱に富んでいます。要は金がないから金を得るために外国に出かけたわけです。
 しかし大方のスペイン在住の日本人は、金がないから金を得るためにスペインに来た人はほとんどいないはずです。学生運動が盛んで大学も閉鎖され、暇を持て余すその頃の大学生、何でも見て野郎的な海外貧乏旅行を推薦する本がたくさん出版されました。北欧でバイトしてそろそろ季節的に寒くなったので、温かさと安いワインがある貧乏国、スペイン、ポルトガルにでも行ってのんびりしようとフランコ政権末期のスペインにやってきた輩もたくさんいるはずです。
 ピレネーを超えるとアフリカだった時期はほんの二昔前なのです。私が最初にスペインにきたのが、フランコの独裁が終止符を打ち、スワレスという政治家が首相を務めていた時期でテレビも2チャンネルの白黒しかなく放送終了時に国歌をBGMに、スアレス首相が執務をしている様子が流れたりしてマーこれがスペインといった時代でした。そのあとにゴンザレスの社会党政権が訪れるのでした。
 あの頃1年半ほど理由もなしにバルセロナにいました。学生の中途でスペインに来ました。そして何となく海沿いのシーズンオフの家を借り、週4回バスに揺られてバルセロナの公立語学学校に通い、週二回は必ずエンカンテツという蚤の市に通い、ガラクタを買い集めたりして青春を無駄使いしてましたね。ランブラス通りには、マラガで拾ってきた石に星座の名前を漢字で書いてこぎれいなペンダントにして売っている怪しい日本人がいたり、水中花を日本から取り寄せてのみの市で売り、そのお金で家を買ったという伝説の日本人カップルがいたり、結構みんないい加減で、何となく生きているといった輩をたくさん見かけましたね。
 あの人たちも、もういい年です。どうしているんでしょうか。またあの頃、まさに燃えよドラゴンの映画が封切りされてブルースリーの絶好調の時代で、空手ブームが吹き荒れて、日本人の空手の先生が引っ張りだこの時代でした。ちなみにスペイン人は空手やテーコンドーが好きで道場がやたらと増えた時代でした。韓国の人が財を成したのは、テーコンドーの先生として、またひよこ鑑別師としてお金を作り韓国料理のレストランを出展にまでこぎつけた人等です。ほとんどの韓国料理のオーナーは元ひよこの鑑別師です。
 今は、一線を退いた年になりましたが、元フラメンコの踊り子、ギター奏者、ガイドさん、60年代後半や70年代にスペイン在住を開始した人たちが、それなりの歳になり次のジェネレーションにバトンタッチしつつあります。2世3世の時代になり顔だけは東洋人で、スペイン語べらべらで、スペインの社会で動き出した次世代の若門がどんどん増えだしました。根性なしのふらふら日本人の時代が終わり違う形の躍動が生まれつつあります。何しろあのころにスペインにきた日本人は、アメリカ志向の一発やったろかの若者ではなく、何となくスペインぬるま湯で好きの輩だったと思います。今のスペインは、違う面で全てが中途半端、住みづらくなりました。なんだかよく分からないうちに今日はおしまい。じゃんじゃん。

4 Comments

  1. そうそう、TVは2チャンネルでしたね。(ネット用語ではありません)。高校2年頃、いまでいう引きこもり的なメンタルクライシスに陥り、卒業後は朝昼逆転の生活でグズグズしていたところ、急にバルセロナで住むハメになりました。スペイン語を社会人に混じって夕方信濃町の教室に通い、電車のホームで動詞の活用をつぶやくようになった頃、何となくメンタル状態も好転していったように思います。日中することもないので、テレビをつけっぱなしにして、耳に止まった単語を辞書で引くという繰り返し作業をするうち、人々がどうやら、子音を聴き取って意味を理解していることに気付きました。先生だった人達、Pilar、Jose Antonio、Terencioさんは今もお元気なのですかね。日本語大好き学生もいましたね・・

    • ともちゃん。高校2年生か。やばい、年が過ぎたんですね。懐かしいけど戻りませんね。GOGO,行け、行けが今の選択です。やるきゃない。

  2. いい時代だったんですね
    素敵です

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