昔昔の餓鬼のころ,餓鬼といっても高校生のころ高校が、東京だったもんで、電車通学の毎日。その上、部活で帰るのが遅くなるのがショッチュウで、ちょうど、サラリーマンがいっぱい気分で赤い顔して帰宅の時間にぶつかる日が結構ありました。
皺くちゃのワイシャツで、背広が安っぽいのを引っ掛けたおっさんがつり革につかまってご帰還の姿を見て、こんなおっさんには、絶対ならないぞーと、又そんな場面に会うたびに憎悪を感じていたのを覚えています。満員電車でげろを我慢するおっさん、惨め爺と心の中でののしったのを覚えています。若いときは、だらしない中年のおっさんを見てあんなおっさんには、絶対ならない。俺は俺はと理想を追いかけていた時代がありました。
何時ごろからか、そんなおっさんを見て、大変なんだなー。たまにはいいよなー。頑張れよ。なんて言葉が浮かぶようになりました。やってられないよの意味が解るようになったのは何時ごろかなーと考えるようになりました。人間が練れてきたのかもしれません。神童が普通の人になるようになんとなくそうなっちゃったのかもしれません。現実の世界を観て妥協路線に走り出したのかもしれません。
ただ今いえることは、どんな人間でも寿命がくれば、ハイさようならで、みんな順番、突っ張っても、片意地張っても、人生50といわれた時代が、ちょっと前まで存在していたということです。せいぜい長生きできるようになっても80まで生きれば上等でしょ。そんなことを考えると、一日一日を生きる意味がおのずとずっしりきます。今までどんだけ無駄な日々を送ってきたか、別に聖人になったつもりはないけど、通り過ぎた日々の速さをふと感じる今日この頃、妙にここまで生かせてもらったありがたさを感謝する私に、戸惑っています。第4コーナーを回り始めたおじさんの現実。花咲き爺さんで終わるか、不良爺さんを全うするか。さあーあんたはどっちにかけるか。おじさんの苦闘が始まるぞー。明日はジョーどっちだ。