蝋燭の灯パート3

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 蝋燭の灯と書き出しで始まりました。この蝋燭の漢字、自動的に出てきたもので、私の頭に入っているわけではなく、コンピューターが勝手に表示したのをこんな感じと解釈して蝋燭という超難しい漢字をさも簡単に導き出したのです。この便利さは確かに快適なものですが、コンピューター操作だけで、いざ実際役に立つのかは、疑問でコンピューターに飼いならされた人間がそこにいるわけです。要は一握りの優秀な人間がいて、その一握りの特別な人が、ごくごく一般の人様に便利という何か幸福をもたらすようなものを提供して、代償として実は、お金を儲けているということなのです。スマートフォンで、自律神経失調症になっても、癌が増えても、自殺が増えても、家庭崩壊の確率が高まってもそんなの、俺の知ったことじゃないが彼らの言い分なのです。

 やばいんだよという風に考える常識人は、まだまだ少なく、世の中のお馬鹿さんは一杯います。そのお馬鹿さんは、今日楽しければ、いいのであって、そんな感じの大多数のお馬鹿さんも、選挙になれば、皆平等の一票ですので、TOKIO の山口君の動向のほうがよっぽど興味があるのです。要は、お金が一番の政治屋や、ごく少数の財閥、ファミリーが潤えばいいという世の中の仕組みは、実はいまも昔も何ら変わっていないのでした。

とふと感じた事を冒頭で書き連ねましたが、実は今日のタイトルとは、まったく関係ないことで、諸行無常の心境でふと思いついたことを書きなぞったのでした。それでは本題に入ります。
 マドリッドから車で1時間位のところにセルセヂージャという小高い清閑な小さい村があります。その村に、国立の末期の症状を持った、例えば、エイズの末期患者、がんの末期患者etc何しろ最後の残り少ない日々を、神様の庇護の下で過ごしあの世に行ってもらおうという病院があります。そこに、私の治療所に来てくださった患者さんや日本人でこの地でお付き合いのあった人たちが、入ったという情報が入ると週末を利用して何回となく駆けつけました。 やせ衰えて今にも逝くといった人たちの集まりなんですが、行くとみんな喜んでくれて1時間程度お邪魔して帰るわけです。何人もそんな人との会話をしてきましたが、きまって死の10日前ぐらいの人とお会いすると、先生、体が調子よくてね、リハビリを始めようと思うんだというのです。時間があれば15分程度、床ずれが激しいので、背中を指圧するのですが、気力だけで生きてるとしか思えない体に、気があふれているのです。圧すると反応が返ってくるのです。彼らの顔を自分で見れば、もう最後かなーと納得するだろう顔なんですが、最後の蝋燭の灯がパーツと燃えつくしているのか、体に気があふれているのです。こんな時は経験上、来週はもう来る必要は、ないのかなーと思ったりするわけです。俗にいう死の予感です。
そんな時の人って、やせ衰えて一見鋭い目つきの形相を想像しますが、反対で顔が妙にやさしく微笑んでいるように見えるのです。仏様です。お迎えが来たことを悟ってあんな顔になるのかもしれません。
 俳優の丹波哲郎さんが、あの世は楽しい所だよのー説を唱えていましたが、まんざら嘘ではないのかもしれません。死ぬときは、ハピネスホルモンが通常の100倍も出て、本当の極楽気分だよといった和尚がいましたが、これもまんざら嘘でもないのかもしれません。
 死刑囚が絞首刑のとき、絞首刑の瞬間、ほとんどの死刑囚は射精をすると囚人看守官が、千原ジュニア司会の(だらけ)番組で言ってたので、死ぬ瞬間は、実は極楽の始まりなのかもしれません。人間最後の瞬間が。大事で大往生したいものです。ポックリ死が理想ですかね。半身不随で車いすの老後は、ちょっとやばいなーと感じます。感じますが、それでも御迎えが来るまでが運命ですので、生き抜くしか選択の余地がないのかもしれません。
 大和尚が,死の瞬間まで、死にたくないと動転していた話を聞いたことがありますが、誰もが一人で出てきて一人で退場が世のルールですので、ハテハテ、今から徳を積んで、死ぬ間際に軽いジョークを一発かまして逝けるのか、それとも助けてくれーとじたばたするのか、5分、5分の掛け率かなーと思うおじさんなのでした。
 話が、代わりますが、やくざさんって結構、肝障害でいっちゅう人が多いようですね。、怒ると肝を害するという事を東洋医学で謳っています。逆に恐れは腎を害するとあります。肝腎要の肝腎を害する職業ですので結構、東洋医学も当たっっているところがあるようです。いずれにしても、あの世(死)を考える年に達したことは確かなようです。ジャンジャン。

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