人生はなんとなくで良し

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渡西40年の指圧道と題してキャンペーン実施中です。何やかやで。スペイン在住40年。スペインに何しに来たのと聞かれれば、指圧を広めるためだとズバリ言い続けて今があります。狭い日本を後にして、夢の国アメリカを屁とも思わず、一直線にマドリッドにたどり着きました。あのうさん臭いあの頃のテレビのアメリカ版ホームドラマを妙に嫌い、夜の10時半から毎日聞いた文化放送のハリス先生の100万人の英語を、キッパリ捨てて、大学の選択科目で聴講した、熊谷先生のスペイン語を信じつつも、少々ビビリながら、成田から大韓航空でパリまで行き、パリからマドリッドまで、寝台列車に乗り、朝方、赤いポーレンの咲き乱れる線路沿いを車中から眺めながらマドリッドに到着したのでした。

2,3年でもういいやと帰りたい人がいます。何年たっても何処で住んでも同じという人がいます。この単純な思考が、人生の生き方を左右します。私は O 型の典型とよく言われます。落ち込んでもすぐに忘れるタイプです。一人でぼーっとしているのが好きですので、まったく孤独が堪えません。何人かの一生の友がいますので、それで十分です。友と知り合いは、できるだけ少なくをモットーに生きています。

今は、パリからマドリッドの夜行は廃止されたみたいです。どうなんでしょう、何年もたって、スペインもEUの優等生で面白くなくなったスペインですので、けしの花の乱れる線路沿いはもうないかもしれません。スペインは、まだまだピレネーを超えるとアフリカだった頃ですから、そしてペセタの国スペインですから、何でもありの田舎の一国だったことは、確かなようです。

何回か、このブログにも紹介したことがありましたが、エステシャンの傍ら、未来を言い当てるというのか、アドヴァイスをくれるお姉さんがいて、帰国の度にお会いして進路を問いました。彼女が言うには、スペインは、変わるわよー、の一点張り。商売は北。全て北で勝負ね。のこんな会話で、いつも終了。なにしろこの言葉を信じて、スペインの暮らしを続けたことは、確かです。EU諸国の一員になり、ペセタからユーロに変わり、あの頃の社会党の首相フェリッぺエ ゴンザレスのカリスマとバブルの到来で、高速道路をEUのお金を分捕っては、バンバン、インフラ事業に着手して,ヨーロッパ一のハイウエイ大国になりました。あの頃の患者層は、皆土建屋関係の有閑マダムで、それにつられて一代指圧ブームを作り、テレビのワイドショウに何回となく招待された時期がありました。

信じがたいのですが、バブル期のお祭りは、患者が、ひと月1200人といった数年があり、今でもあの頃は、いったい何だったんだろうと思う時期が、ありました。まさしく90年代の世界中が、踊りだした時期がスペインにもあったのでした。あの頃、こんな時期はいつまでも続かないと思う反面、じゃんじゃんお金を、消費した時期でもありました。

アラブのおじさんを指圧するために某国に飛行機で行き、2,3日滞在して、また飛行機で、帰国なんてことも、確かにありました。小切手でいただき、こちらは、金額を表示しなくても、あちらで勝手に決めた金額でOKなんて時代もありました。あの頃のお金をキープしていたらとだれもが思うのですが、悪銭じゃないにしても、そんなお金は、すぐに無くなる浮世のようです。

それからバブルが、はじけていつの間にか、成金の有閑マダムは、姿を消して、いつもの状態にいたり、普通の治療院になり今に至っています。健康産業、特に代替療法すなわち予防医学ですので、ブームなんてないわけで、金がなくても、あっても体の投資を一番に考える人たちは、20年、30年と黙々と通い続けて来ていただいております。牛のよだれとはよく言ったもので、継続はやはり力なのです。

それでも、武漢ウイリスの3年間は、すべてを変えました。スペインに5校ほどあった指圧の学校が、次々とお辞めになったようで、今では私の所と針と指圧を教えている学校の2校になりました。

武漢ウイリスの前の2020年は、指圧の海外ツアーが、沢山計画されていていました。やるぞーの押せ押せの日々でしたが、あのマスク常備の3年間は、確かに冷や汗ものでした。どうにか持ちこたえましたが、廃校寸前だったことは確かです。治療院だけのほうが 効率はいいのですが、もうからない寺子屋での指圧普及があるからこその海外生活です。

歴史を残したくここにいると意地を張って学校を継続している事実があります。意地を通すのも、これはこれでいいと思っています。嫁さんには、すまないと思っておりますが、これも生き方と勝手に見栄を張っています。

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