群れ人の必需品

| 1 Comment

スペイン人のカップルがレストランで飯を食べています。ただ淡々と飯を食べています。食べ終わると早速二人は待ってましたと言わんばかりに携帯電話を取り出し操作し始めました。スマートホンの操作が一段落つくとボーイさんにお勘定を頼みカードで済ませて二人は席を立ちました。全てモクモクとです。是って普通ですか。少なくてもおしゃべり好きのスペイン人はまってましたと終わりのない永遠と続く会話を楽しむのが一昔前のことでしたが。

しかし今はスマートホンのお蔭で何かが変わりました。家族だんらんの食卓でさえも、準備ができるまで、そして食べ終わって、息子たちは携帯をいじり始めました。最後には親父もいじりだしたぞー。こんな風景はアメリカ、日本、ここスペインも同じでしょうね。是ってなんか変じゃないですか。でも誰も言わないんです。 カップル然り、グループ然り、一人でいても、携帯電話は唯一のお友達。なんか変だけど、何か異常だけど、何年かすればこんな場面も全て普通の時代が来るのです。Bigマネーが動いているんですからマイナーの常識人の意見など大会社は押しつぶしますよね。

 友達の少ない私は、みんなが四六時中メールを交信したり、電話でいつでも会える人との会話を、さも何年もあっていない人との会話のように楽しんでいる様子を見て、そんなに話すことあるのかなーと疑問に思ったりすることがよくあります。日本には何人かの友達がいて、帰国時によく会いますが、そこの所の絆は一年に一回の再開でもそれはそれで十分なはずなのですが。誰かと会話しているという安心感を得たいからなのでしょうか。いろいろな情報を得たいから携帯を手放せないのでしょうか。いつも何かに満たされたい、情報がたくさんあることで安心感を得たい。

 マー俺に言わせると典型的な性格の弱さによる防御反応なんだけどスマートホンで満たされるのであればそれも良しなんじゃないかな。無の状態にすることのむずかしさは、禅や道を歩む者には理解できます。この無の世界の素晴らしさがわかるものには、携帯は煩わしいものであり、人生において何の役にも立たないものだと理解できるのですが。大方の人はみんなと共有したい、一緒にいたい、要は群れることにより何かが救われるのでしょうね。サッカーをみんなと騒ぎながら、ビールを飲みながら見たい。群れることによる安心感。携帯でつながっているという安心感。弱い人間の性をうまく利用した商売がアップルであったり,facebookであったり、でも夢がなくなった分、その辺で若者が妥協して納得してんだから、おじさんがガタガタ言うことなどないのです。価値観の違いと解釈すればhappy,happy。回る回る時代は回るなのです。

 私の親父の晩年は、老人会やdayサービスなどに誘われても一切参加しなかったそうです。一人黙々と本を読んだり、好きな庭いじり三昧でとうしたようです。わざとらしい老人に対する親切や、爺婆(じじばば)同士の嘆き合いが嫌いだったみたいです。生まれるのも一人死んでゆくのも一人、おやじの生き様、死にざまにすごい憧れと、俺も親父のように筋を通した生きざま,死にざまを無言で息子たちに示したいと思っています。

 スマホに遊ばれているお馬鹿さんが多い中で、旨くスマホをこき使う人になりたいですね。生き残りをかけたゲームを楽しむのが現代人です。人生はゲームです。負けの美学もありますが所詮は負け犬の遠吠えです。人生を群れない。むれない人はスマホも群れさせないでうまく使い切る。こんな結論にて今日も一件落着じゃんじゃん。

One Comment

  1. 私は、ガラケーで頑張っています(笑)

Bee にコメントする コメントをキャンセル

Required fields are marked *.