蚤の市パート3

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バルセロナにいた頃、一番手っ取りはやい滞在許可証の取得は、学校に行くことでした。それも国か地方の自治体の下で経営されている公立学校の入学で得た学生証が一番有効ということは、誰もが考えることで、安い月謝払って学生証をもらって、学生ビザをGETして学校は行かない。

このパターンが当時は一般的な安上がり中期滞在法でした。あの頃は、まだEUが存在しないので、スペインも緩々の規制で、3ヶ月に一回スペインから出れば言い訳で、バルセロナだったら、日帰りの弾丸アンドラ旅行、マドリッドだったら夜行の列車でリスボン、もっと安く上げたかったらリスボンまでバスで行き到着したら、バスのターミナルに設置されたうら寂しい定食屋で、飯食ってそれ又バスでリターンが定番でした。
 もうただただめんどくさくなった輩は、一切スペインを出国しないで、最終的に、日本に帰らざるを得なかったりした時や、他の国に出て行きたかったら、強制送還の道があるさーと開き直った、ランブラス通りでマラガの海岸で拾ってきた、こ汚い小石を磨いて十二支の漢字を書いてペンダントにして売っていた的屋のヒッピー日本人も何人かいましたが、要はなんとなくその日暮らしの人間が多かったような気がします。当時はヨーロッパの北(スエーデンやオランダ)でアルバイトをして南下、例えばスペイン、ポルトガルで金がなくなるまで過ごすといった輩もずいぶんいて、スペインは、ホカホカでキリギリスが住む、蟻さんがバカを見る国だったのかもしれません。。まさにまだまだピレネーを越えるとアフリカだったのです。
 今でも思うんですが、根性があってドリームに向かって大驀進思考の日本人は、スペインではなくヤハリ、アメリカにGOGOだったと思います。それをあえて選んでスペインに来た私は、やはり根っこは怠け根性丸出しだったんでしょうね。そうです、あの頃のスペインはまだまだ怠け者バンザイの雰囲気ぷんぷんの国だったのでした。それでも何年かして永遠の恋人EUに加盟してペセタからユーロになって若干は変化しましたが、後々バブルがはじけて元の木阿弥、そして、若者の失業率が25パーセントに沸騰して混沌の今、何が起こってもおかしくない状況のスペインがここにあります。
 怠け者の意地を見せなきゃなー、と考え考え友の娘を案内した蚤の市でした。
 久しぶりの蚤の市、何、何、この堕落、魅力のなさ、伝統の蚤の市を日常雑貨市にしたのは誰だ。中国人がオーナーの衣類雑貨店が目立つこと目立つこと、ここにも侵略の手が伸びたかの一言。チャイナとスペイン人(ジプシー)のコラボは確かにミスマッチ。この変化は、正に嘆かわしいの一言でした。それにしてもヨーロッパのワースト1に入る程の趣の変化に驚かされました。
 ここにも何事も中途半端なスペインの現実が反射されて、なるほど納得と思わず試して合点の心境になりました。

2 Comments

  1. こんばんは。
    初めまして。
    日本の埼玉の高野歯科医院に通っている堀川というものです。
    この度、スペインに留学するにあたって、高野の先生から小野田さんを紹介して頂きました。電話したのですが、繋がらなかったので、こちらのメールアドレスにご連絡頂けると助かります。

    よろしくお願い致します。

    堀川

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