蚤の市パート4

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 再度のスペイン行きは、日本指圧専門学校を卒業して2年後のことです。1年半がバルセロナ、そしてマドリッドが84年からだから31年、結構人生の半分以上が外国暮らし、何でスペインなんですか、と良く聞かれます。

まともな答えを言えないまま此処までき来たので、これから先もしどろもどろの答えでしらばっくれるでしょう。
 スペインに戻って指圧の普及と治療で人生をチャレンジ、ずいぶんかっこいい垂れ幕をぶら下げましたが、最初の5年、すなわち娘の真美子が生まれるまでは、なんとなくの記憶しかありません。

 指圧の治療は確かにやってたんだろうけどボチボチだったんだと思います。ただ記憶にあるのは、毎週日曜日、必ずラストロ(蚤の市)に行き、帰りはENBAJADORという通り(ラストロのそば)にあった東京飯店という日本人経営のレストランで餃子とラーメンを毎回平らげて満悦した後、帰宅したのを今でも鮮明に覚えています。
 このレストラン、日本人の的屋さんや、学生崩れの観光ガイドさん、虚勢じみた声張り上げて飯食ってる貧乏学生etc。何しろ胡散臭い面々がうじゃうじゃいましたね。昼間からマージャンのジャラジャラ音が唸ってて、後で知り合うですけど、伝説のジャン師堀さんがいつもたむろしていた、マー超古のマドリッドに住む日本人は思わず頷いちゃう懐かしのレストランなのです。フランコ独裁の終止符を今か今かと待ちわび、あのマドリッド国際空港の名前のアドルフォスアレスが軍人クーデターにもめげず、希望の星として、テレビが2チャンネルしかなく、白黒の古い映画をなんとなく流して終わりは、スペインの国歌とともに当時の首相アドルフォさんが、颯爽と出てきて今日も国民の皆さんお仕事お疲れ様でした。なんて顔で出てきて、あー今日も終わった明日はもっと頑張るぞー。と疎頷いた希望に満ちた時代を通り抜けて今日まで来たのです。

 私はいい時代、成長期、バブル期、ひっくり返った時期、我慢の時期、ペセタからユーロに移行して希望に燃えた時期、すべての時期を見てきたような気がします。あー早々何時だったかはもう忘れましたが、東京飯店、人が刺されて死んじゃってごたごたの挙句ひっそり閉店しましたね。続く。

2 Comments

  1. はじめまして。ぎっくり腰で寝込んでいる中、偶然見つけたこちらのブログを楽しく読ませてもらっています。

    • ぎっくり腰は、家の治療院の得意分野何ですが、とにかくお大事に、回復期になったら是非、じょじょに筋トレでがっちり椎骨をガードしてください。今後ともご愛読をよろしくお願いいたします。

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